きよはるの原点

〜 私の原点 〜

 私が清瀬市議会議員5期20年間勤められた大きな要因は、この雑誌に出会った事による。それは、発行所 清瀬自然を守る会 会長 熊谷元一による「雑木林 1978・3 NO,6 〜「芝山」特集 残したい病院街のみどり」である。
 その中で、芝山のむかしといまの題名による田中正大氏によれば、大正4年、武蔵野線が池袋から飯能まで開通した頃、沿線に3つの大きな雑木林があった。1つは田無のあたり、2つは清瀬から東村山にかけて、3つは東村山にあった。2つ目が芝山という広大な雑木林で、東は清瀬郵便局、西は大岱村(現在恩田町)、南は野火止用水、北は志木街道に囲まれた南北約1,2キロ、東西約3,2キロぐらい、およそ350haくらいの林のかたまりがあった。

宅地分譲と清瀬駅

 大正10年を過ぎたころ、東京土地住宅株式会社がこの林に目をつけた。池袋駅から清瀬までの間に、線路に沿った広い雑木林は、ここをおいて他になかった。清瀬駅がまだ出来ていなくて、村民は東久留米駅や秋津駅まで歩いていたころの話である。昭和2年および昭和4年修正の参謀本部の25000分の1の地図に整然と区画された分譲地をみることができる。
 宅地分譲をはじめた頃に清瀬駅設置という話がもち上がった。数十町歩(数10ha)という土地を土地開発会社に売り会社とともに開発に力を入れていた上清戸の中村六三郎氏は、この駅の誘致に運動資金をつぎ込むことをおしまなかった。当時、中村六三郎氏が交渉した武蔵野線の相手は、常務取締役の小林ミツオ氏であったという。駅が出来たころ、中村氏は今の市民センターのあたりに清瀬館という劇場を作ったり、駅前に料理屋を開業したり、清瀬の文明開化に一役かったようだ。

府立清瀬病院きたる

 清瀬村会で「療養所設置位置変更ノ意見書提出ニ関スル件」を議決して、意見書を提出し、「一帯ノ土地ハ客年来、東京土地住宅株式会社ノ経営ニ依り住宅地トシテ之レガ分譲ヲ受ケタルモノ?ル多ク、遠カラズシテ多数ノ住宅ハ建設セラルベク、同地ニ療養所ヲ設置セラルルニ於テハ、住宅建設ハココニ全ク沮止セラルベク、本村将来ノ繁栄ハ得テ望ムベカラズ候。」
この意見書が効を奏したのか、東京府は一度はあきらめていた西多摩郡霞村に設置しようとした。今度は霞村の抵抗にあって、再度清瀬に舞い戻ってきた。こうして昭和4年3月、2回目の村会議決、意見書の提出となった。(「清瀬市史」)
 東京府は一方で警察の力を使いながら地主と各個交渉をはじめ、村会で意見書を提出した頃は、既に土地を手放していたという人もあったという。中村六三郎氏はもっとも協力した地主で、これらの地主と反対する村民の間に不穏な空気が流れた。

結核療養所でそろう

 府立清瀬病院が昭和6年に建ってからは、これに吸いつけられるように、結核療養所が次々と建っていった。どこでも嫌われた結核療養所が安住の地を求めてやってきたのであった。結核を恐れて猛反対をしたものの、病院が出来てから結核に感染した村人は一人も出なかったし、殊に病院内の雑木林に落葉を取りに入った人たちにも何ら影響なかったことが結核に対する恐怖感を薄くしていたようであった。
 ここで研究された事実、開発された外科技術は、全国の結核患者の福音となっていた。

肺結核・転身

 病院が近くにありながら所沢の医者に診てもらったという清瀬の人たちも今では近代的な病院群に恵まれた町となった。府立清瀬病院が清瀬に来ようとした時、いち早く土地を提供して村民の激昂をかった中村六三郎も「東洋の医療センター清瀬の名声を今にして高からしめた功績はこの中村翁であり、医療地区を語るときこの人の奈を忘れることが出来ない。」(「多摩の歴史2」S50)という評価の逆転の中に脱結核を端的にあらわしている。

中村六三郎は私の母の父親ですが、私はおじいちゃんの姿を見ていません。昭和10年5月21日48歳の若さで死去しています。清瀬村の発展に様々な事業展開する中、世界の大恐慌に巻き込まれ破綻し、全てを失い、自らも病死してしまったとの事です。私は母からこの事を話で聞いていましたが、多摩の歴史やこの「雑木林」による記述により、改めておじいちゃんの存在感を感じたものです。
人の命は地球より重いとの信念があった事と思います。清瀬市の個性の源を創った大きな要因であり、後世に引き継ぐかけがえのない財産であるからです。私はこの事を基本とし、政治活動をしてきました。

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